質問12:仏教について不勉強すぎて、怖くてお寺に行けません。どうしたらいいんでしょうか。
禅のお話で、「お茶で満たされているお茶碗に、さらにお茶を注いでもあふれてしまう」というのがあります。生半可な仏教の知識で頭を満杯にするよりは、かえって心を空っぽにしてお寺を訪れたほうが良い場合だってあるということです。ですから、不勉強のままお寺に行ったら怒られる、なんてことはありません。どうぞお気軽にご利用ください。お寺というのは、死んだときだけ利用すると高くつきますが、普段から利用しておけば割安です(笑)。ぜひ住職さんやお寺の奥さんなどと仲良くなって、いろんなお話をしてみてください。たいていのお坊さんはお話好きで、誰か仏教の話を聞いてくれる人はいないかとウズウズしていますから、喜んで仏法を伝えてくれることでしょう。
でも「お寺が怖くて入りにくい」という印象はあるでしょうねぇ。特に都市部では、あまり「地元のお寺」や「お寺とのなじみ」などはありませんから。近年、東京で青松寺という曹洞宗のお寺で「仏教ルネッサンス塾」というこれまでの仏教の枠にとらわれない集まりが開催されていて、若い世代を中心になかなかの賑わいだそうです。塾長は東京工大の上田紀行先生で、この方は『がんばれ仏教!』(日本放送出版協会)という本の中で、「ほんとは、仏教って、お寺って、すごいおもしろいはずだぜー。」と、仏教界への熱烈エールを送ってくださっています。
青松寺さんみたいに檀家でなくても参加できる法座や仏教講座を開いているお寺もけっこうありますし、もし一般寺院に入っていきにくいなら(確かに何の縁もないのに入っていきにくいかも…)本山や別院といった各宗派を代表するようなお寺を利用するのも良いかもしれません。そこでは誰もが参加できる開かれた場や機会が設けられていますから。西本願寺でも、関連施設などで常にさまざまな仏縁のお座が催されています。参加に際して、必要なものは特にありません(お念珠くらいは持って行きましょうね)。聞こうとする真摯な姿勢があれば、それで充分です。講演会やカルチャーセンターなどで仏教のお話を聞く場合とはまた違った趣があると思います。
質問13:
1.あみだクジは、阿弥陀如来からきているのですか?
2.しかもそのあみだクジは、一般に縦線に横棒を引いて、当たりを決めると言うものですが、その図式は阿弥陀如来となにか関係があるのでしょうか。
3.「あみだばばあのうた」を作った桑田佳祐は、そのことを知っているのでしょうか?
4.あみだばばあと言うくらいですから、「あみだ」とは、女性をかたどったものなのでしょうか?
だんだんヘンなのがくるようになってきて、うれしいかぎりです(涙)。
1と2…「あみだクジ」という呼び方に関しては、「阿弥陀仏の救いが平等であるように、公平なクジだから」だとか、「かつては中央から八方に線を引いたクジであって、その蜘蛛の巣をはったような図形が、阿弥陀仏像の光背(阿弥陀仏の身体から放たれている光)に似ていることからこの名がついた」などという話を聞いたことがあります。
3…桑田佳祐がこのことを知っていたかどうかはわかりません(当たり前だ)。しかし「あみだばばあのうた」の歌詞から想像しますに、桑田佳祐は「あみだクジ」と「阿弥陀仏」とを関連づけて考えていたとは思えません(普通は考えんだろ)。
4…あのね、「あみだばばあと言うくらいですから」ってね…、「あみだばばあ」は仏教用語じゃないぞ。明石家さんまが変身するキャラなんですから。
ちなみに、仏は性別を越えた存在として語られますので、(具象化する場合は釈尊をモデルとはしておりますが)男性とも女性とも区別し難い姿で表現されることがほとんどです。あ、だからといって「♪男と女の間のばばあ〜♪」という歌詞は仏を指しているのではありませんからね(汗)。
質問14:阿弥陀堂より御影堂の方が大きいのはなぜですか?
うわぁ、きっつう。この方、わかってて皮肉で質問されているんじゃないでしょうねぇ。なんだかこのコーナー、私をだんだん窮地に追い込んでいってないですか?
確かに浄土真宗の教義に立脚するならば、親鸞聖人をおまつりする御影堂よりも、ご本尊である阿弥陀仏をおまつりする阿弥陀堂のほうを重視すべきはず。なのに、御影堂のほうが圧倒的に大きくて豪華なのであります。これは西本願寺だけではなく、真宗各派の本山もその傾向にあります。
これは「宗派」というセクトが抱える悩ましい矛盾ですね。なぜなら浄土真宗が浄土真宗として成立するには、親鸞聖人というパーソナリティーが不可欠だからです。なにしろ阿弥陀仏信仰だけじゃ、他の浄土仏教教団との差異化ははかれませんから。こういうのを民俗学では「祖師信仰」とか「開山信仰」と言います。あらゆる宗教教団に見られる形態であり、ご存知のように親鸞聖人のことを「御開山(ごかいさん)聖人」と呼び習わすほど真宗教団においても根強いものがあります。やはり私たちは、親鸞聖人をはじめとするさまざまな先達のパーソナリティや言葉を通して、阿弥陀仏の願いをリアルに感じることができるのだと思います。
というわけで、御影堂が大きいのは教団の存在意味を提示しているから、と言っていいんじゃないでしょうか。まさにあの巨大な御影堂は、共同体ネットワーク(末寺や講や同朋)を包括する組織を支え表現しているシンボル。宗教的シンボルを理屈で簡単に否定することはできない、というのが私のスタンスです。
質問15:真宗で恋愛を語ろうとするとどんな風になりますか。
真宗は出家主義形態を解体した仏教ですので、恋愛に対してもごくノーマルな人間の営みとして認識していると思います。でも、真宗で恋愛を語る場合、結婚や家庭生活を前提にする傾向が強いですね。ほら、親鸞聖人と恵信尼(えしんに)さまとがお互いに相手を菩薩だと思って家庭生活を営んだ、というエピソードがあるじゃないですか。ああいうイメージですね。もし真宗を足場に恋愛を語ろうとするなら、「ありのままの姿を見つめる」と「相手の声を聞く姿勢」あたりがカギになるのではないでしょうか。
ところで、第四回で「恋愛は自己愛と錯覚だ」と書いたら、何人かの方から抗議されました。特に学生さんあたりは恋愛にピュアな幻想をもっていたりする人がいるので、この文章は評判が悪かったです。狙い通りじゃ、わはは。あのね、恋愛はピュアでもなんでもないです。できるだけ早く「それは幻想だ」と気づいてください。でも幻想だからどうでもいいとか意味ないとかつまらないことだなどとは言ってませんよ、私。逆です。幻想だからこそ、それぞれが大切にしなければならないのです。幻想だからつねにケアし続けないと、簡単にこわれちゃうんですね。だから、恋愛は自己愛の投影であることをしっかり自覚した上で、パートナーとともに幻想を育む姿勢を大事にしてくださいね。
質問16:仏さまって本当にいるんですか?
仏さまがおられるかおられないかは、Sさんが決めるんですよ。仏さまがおられる生活とおられない生活、Sさんはどちらを選ばれるのか、私はすごく興味があります。そして「私の人生に仏さまはおられねばならない」と生活されている方にとって、間違いなく仏さまはおられます。