得意芸のひとつと申し上げてもよいかと思う。
「猫に名前をつける」のもひとつの芸である(これについては伊丹十三と村上春樹がそれぞれ掬すべき名言を語っている)。
私は本を書く前にまずタイトルを決める。
かっこいいタイトルが決まると、それだけでもう一冊本を書き上げたような気分になる。
最近の「納得タイトル」はこの『東京ファイティング・キッズ』と、『インターネット持仏堂』。
『インターネット持仏堂』はたいへん気に入っているのであるが、本願寺出版社の方からは「ぜひ『浄土真宗』の語を入れていただきたい」という要請があり、困っている。
『インターネット浄土真宗』ではなんのことかわからないし。
しかたがないので、本願寺新書(というものが創刊されて、これはその新書二冊分上下巻発売)の第一号を『いきなり始める浄土真宗』、第二号を『いきなり始めた浄土真宗』とするという奇策を提言した。
ただこれだと読者が「る」と「た」を見誤って、同じ本を二度買いしたり、同じ本だと思って一冊しか買わなかったりする可能性もあるので、第二案として、第一号を『これから始める浄土真宗』、第二号を『さきほど始めた浄土真宗』という案も用意している。
あるいは『浄土真宗なんかわからなくてもいいもん症候群』と『浄土真宗なんかわかっちゃったもん症候群』というのはどうか。
でも、本屋で書店員に「『浄土真宗なんかわかっちゃったもん症候群』ありますか?」と訊くのはちょっと恥ずかしいな。
〈中略〉
ぜひ特記しておきたいことがある。釈先生はじつは曾祖父の代までは「釈氏」姓だったそうで、「釈氏」というのは真宗の僧侶には非常におおい姓なのだそうである。
で、この「釈氏」というのが「猫も杓子も」というときの「釈氏」の語源だそうである。
では、「猫」って誰のことかというと、これが「猫」じゃなくて、「禰宜」(ねぎ)なのである。「禰宜」というのは神社の神官のことである。
つまり、「猫も杓子も」とは「禰宜も釈氏も」つまり、「神官も僧侶も、神道信者も仏教徒も」、すなわち「誰でも」という意味になるのである。
日本は統計によると、神道信者と仏教徒をあわせるとそれだけで2億人になるそうである。ということは「禰宜も釈氏も」はたしかに「すべての日本人」を意味しうるのである。
それに、どう考えても、「猫」と「杓子」を同一カテゴリーに括りこむことができる共通点なんて存在しないしね。
どうして「猫」と「杓子」が同列に論じられることを疑問に思わずに来たのか。
わが不明を恥じることしきり。
「内田樹の研究室」2004年8月18日のWEB日記より
